「野口」の呪縛とそこからの解放・J-POPを内側から壊し、再構築するために−モーモールルギャバン「BeVeci Calopueno」

モーモーの新しいアルバムを聞いてリアルタイムで感じたことをTwitterでつぶやいてました。まずはその記録を時系列に羅列。
・こんな時になんですが。モーモールルギャバンの新譜、掛け値なしで素晴らしい。文句のつけようがない。
・最初の2曲のとち狂い振りといったらもう。色んな意味で素敵すぎて痺れます!wwコークハイが霞んだわ。
・ひさびさにアルバム聞き終わった途端に笑いが吹き出たwこんなアルバムがメジャーで出る時代にうまれて良かったよw
・こんな時だからこそ。元気がみなぎる!このアルバム、めっちゃくちゃカッコイイ!つまりはROCKやわ!
・こんな時こそ力強さ、美しいものの持つ浄化作用、そしてかちこちの表情を和らげるユーモアを。音楽の力、ライブの力を。
・モーモーの新譜が半端ない。こんなに曲の構成や志向が幅広いのに、一曲一曲の密度がめちゃくちゃ濃い。まさにフルアルバムって感じ。聞き終わったら体中が満タンになった感じがする。ちょっと疲れるけど、心地よい疲れ。何より音が堪らなくカッコイイんだぜ!
・うん。この曲順はアリだ。逆にこれじゃないとモーモールルギャバンがJ-POPテロリストと名乗るのは相応しくない。これが!新世代のロックンロール!かつJ-POP!もしこの熱量をライブで再現できるなら、彼らが日本を救うかもしれん。
・人間の持つすべての感情の色が、このアルバムには思いっきり詰まって溢れそうになってる。痺れ、唸り。時に狂気、怒り。祈り、悲しみ、孤独、繋がり。温かさ。そして笑い、泣く。モーモールルギャバン、BeVeci Calopueno。


「野口」という、実質初の全国流通盤が1年半前に発売された。それは、彼らの持つユーモアと破壊力、美しさが「ライブ感」というキーワードで見事にパッケージングされた名盤だった。サイケデリックなインストからポップスまでとっちらかる彩りある曲群なのに、一貫して「生音」に拘った製作総指揮ヨシオカトシカズの妙技と融合し、ライブの魅力が話題になりつつあった彼らの勢いが、そのまま新鮮に内包されていたからこその盤評価だったと僕は思う。
そして彼らはメジャーレーベルに移り、発売された一発目のミニアルバム「クロ」は、その「野口」での評価と自分たちの本当にやりたい音楽との狭間で苦悩した(本人はやりたいようにやってただけだと思うが)部分が感じられる僕にとっては中途半端なアルバムだった。その最もたる事象が、「裸族」の新アレンジだったと、たしかその時も書いた気がする。オリジナルの裸族にあった、その音の隙間に感じる余裕感。笑いと涙を引き立たせる独特の空気感。それらが、自分達の音楽的欲求に押しつぶされて、楽曲の持つ魅力を損なわせてしまう危険性を、彼らも、僕らも、少し感じていた。
そしてその9ヶ月後に出たメジャー初のフルアルバム。このアルバムは、その「野口」後の世界を、迷いなく、自信を持って、こうしたい!という意思表示が、僕のような一リスナーがグチグチ意見を垂れ流す事は勿論、誰にもそんな文句を言わせないという確固たる信念を持ち、全身全霊を込めて創り上げたて提示したアルバム。だから、今回も音楽的にやってることは「新裸族」のスタンスと何も変わらない。だからこそ、彼らの確固たる意志を強靭な精神力で示した証拠だ。「野口」の評価は彼らの真の評価じゃない。俺達はこれでこれからもやっていく、という血のにじみ出た決意表明。

圧倒的に信じて作った表現物が、自分達の思い通りの評価を得られなかったときに、その次の行動をどうするか。それがその表現者の未来を決めると思う。そして今回、彼らは、血を流す覚悟でその次の行動を力強く示し、次の世界へ大きく一歩踏み出してくれたのだ。

そう、今は「野口」前の世界と「野口」後の世界の境界線。
これから、彼らの世界が変わる。そして、それが音楽を信じている人々に伝われば、世界が変わる。

*表現することを生業とするものにとって、表現することを止められる事は「死」を意味する。未曽有の状況による国難であると同時に、そこには希望への一歩を踏み出すための種も必要だ。その種をいつ出すかというタイミングが難しいことは百も承知だ。しかしそれでも、アーティストにとっての命を奪う決断が多くなされていることに少なからず憤りを感じている。
ま、簡単に言うと、「ライブ、やってくれー」って事だけど。